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聖ブルーノ司祭証聖者   St. Bruno C.              記念日 10月 6日


 シャルトルーズ会は数ある修道会の中でも、最も厳格な教団であるが、聖ブルーノは即ちその創立者である。
 彼は1032年ドイツのケルン市に生まれた。両親は貴族で、我が子を司祭達の経営にかかるクニベルト学校に学ばせ、後レンスに送った。ブルーノはなおそこからツールに移り、またケルンに帰って勉学を終え、司祭となり、やがて大司教座付き付属の学校で教鞭を取ったが、その教え子の中には、後年名を成した人が少なくない。例えば教皇ウルバノ2世の如きもそうである。それらの名士達は常に師の恩を忘れず、ブルーノの名も彼等によって天下に知られるに至ったのである。
 しかしブルーノは相変わらず謙遜で、忠実に天主に仕え、そして益々深く天主を愛す事にのみ力を注いだ。彼に学んだ人々は彼の事を次のように記している。「真の道への案内者、叡智の教え主、自己の為さんと欲する所のみを他にも教える人」と。ブルーノは教壇に立つこと16年、その教師としての名声と栄誉は、いよいよ高くなるばかりであった。というのも彼の識見が高く、生徒に唯学問を授けるばかりでなく、彼等を聖会に忠実ならしめ、聖人に仕立てようと努めたからであろう。
 そのうちにブルーノにも苛酷な試練の手が下った。当時の聖会の有り様には実に憂うべきものがあり、不徳の人々が世俗の王侯権力者に取り入って、その力により教会の高位に昇る事も稀ではなかった。ブルーノはそれを苦々しい事に思い、ある集会の席上聖なる熱情に駆られてその非を糾弾する演説を試みた。それを聞いて義しい人々は快哉を叫んだ。しかし心にやましい所のある人々はこぞって彼に反対し、世俗の権力者と結託して彼を排斥した。為にブルーノは収入の途をことごとく断たれ、一時亡命の已むなきに至ったけれども、邪は遂に正に勝たぬ。彼の立派な心事は間もなく認められ、綱紀粛正の為レンスの大司教に叙階されようとした。しかし謙遜なブルーノは、非才その任に堪えずとして之を受けず、暫く静かな所に退いて、おもむろに将来の計を案じ、それから敬虔な友とラングルに行き、そこに住む篤信のモレムのロベルトの意見を求めた。ところがこのロベルトも孤独を好み後に名高いシトー修道会を立てたほどの人であるから、ブルーノにも隠遁生活をすすめ、人跡稀な深山幽谷に富むグルノーブル教区に行き、そこの司教に何処か真に物静かな塵外の聖境を与えられるよう願ったらよいだろうと言った。
 で、ブルーノはその言葉に従い、1084年6人の同志を連れてグルノーブルに赴いた。同地の司教は快く彼等の願を容れ、これにシャルトルーズの幽谷を与えた。ブルーノは同志と共にその地を踏査し、驚き且つ喜んだ。何故ならそこがあまりにも彼の理想通りであったからである。
 彼は同志と力をあわせて一つの小聖堂を建てた。それからその周囲に、一人に一つずつ小さく貧しい庵を作った。これはお互いに邪魔されず思いのまま祈ったり黙想したりする事が出来る為である。そしてこれこそシャルトルーズ修道会のはじまりに他ならなかったのである。
 修士達は交々祈祷や黙想や労働をして、極めて貧しい生活に甘んじた。小聖堂で勤めをしたり、食事したり、折々談笑したりする時には一緒に集まった。けれどもその他の時には各自一人で、共同生活兼隠遁生活を営んだのである。
 ブルーノはかようにして一生を送ろうと思った。しかし5年の後には早くも谷を去らねばならなくなった。彼の教え子の一人が教皇ウルバノ2世となるに及び、旧師の恩を忘れず、彼を聖会統治の顧問としてローマに招聘したからである。ブルーノは従順の徳を破らぬ為に仕方なくその請に応じた。そして後ろ髪を引かれる思いでシャルトルーズを出発したが、その後同地を訪れる機会にはついぞ恵まれなかった。悲しみは同志の人々の胸をも閉ざすにはいなかった。彼等は父ブルーノなしにはシャルトルーズの生活というものを考える事が出来なかったのである。
 ブルーノはローマに着いて間もなく、教皇に同市を辞去する事をひたすら懇願した。それで教皇も遂に御聴許になったが、その代わり彼をレッジオの大司教にしようとされたが、ブルーノはなおも切に願って隠遁生活をする許可を得、静寂な場所を求めて弟子数人とそこに赴き、シャルトルーズに於ける如く小聖堂を作り周囲に各自の庵を設け、全く同様な厳しい生活に身を鍛え徳を積んだ。
 彼はシャルトルーズの同志を忘れず時々書簡を送って彼等を励ました。なお、彼は全く人に知られず孤独な生活を送りたいと望んだが、人の聖徳の光は輝かずにはいない。ある日狩猟にその辺に来られた領主ローゲル伯が、はからずも彼を発見しその峻厳極まる生活振りに驚き、土産物を贈ろうとされた。しかし無欲なブルーノは何一つそれを受納しようとはしなかった。
 ローゲル伯はそれからも度々彼の許を訪れ、何かと教えを請われたが、ブルーノを尊敬する余り、殆ど無理に彼とその同志の為に田畑を贈り、その耕作により生計の立ちゆくようにされた。デラ・トレという名で知られているシャルトルーズの一修道院はかくて次第に出来上がったのである。
 ブルーノは死の間近きを知るや兄弟達を集め、わが足らぬ所を詫び、またカトリックの信経を誦え、ついに1101年の10月6日69歳で安らかに瞑目した。彼はそこの教会に葬られ、教皇グレゴリオ15世はブルーノの記念を10月6日に行わしめるよう命令された。

教訓

 聖ブルーノのような隠遁生活をすることは普通の人には出来ない、しかし時々、例えば日曜日などに一人静かに自分の生活や、死や、救霊について考える事は大いに為になり、敢然として善事を為す新たな力を与えるものである。